アニメ表現の優先順位。
アニメは映像、つまり絵そしてアニメートに依存する表現である。
まず脚本家出身の有名な監督がいない。極めてストーリーの比重というのは低い。
コレは映画にも言える。映画で一番重要なのは監督。脚本家がクローズアップされるのは大抵テレビドラマ。
どういうことか考えるに「映画のような映像で訴える事ができないチープなテレビドラマは、ストーリーの引きで観せるほかないメディア」だという事。
つまり映像が仕方の無い場合の代用品がストーリというものだ。
さらに声優出身のアニメ監督は全くいない。映画のように伊丹十三やクリント・イーストウッドが生まれない。ストーリー以上に声優(俳優)の演技の比重がアニメにおいてより少ない事を示唆している(実写映画は「俳優の演技というハプニング性」にかなり頼った表現だが、アニメはそうでは無い)。そして音楽にいたってはアニメも映画も監督は全くいない。
「映像>脚本>声優>音楽」アニメの構成要素の比重の高低は、つまりこんなカンジになる。
さらにトップの映像を選り分ける。「絵が描けるアニメータ出身者」と「絵が描けない演出出身者」の二種類がいる。
コレは絵の事が分かるアニメータ出身者の方が一見有利なようだが、そう一概には言えない。
ハッキリ言ってしまえば有名アニメ監督はほぼ全員が大学出。代々木アニメーション学院出のアニメ監督で大成した人など知らない。アニメ学校出身の絵の描けるアニメータ(の監督)なら、大学出の絵の描けない演出家(の監督)の方がマシだという事。
また今のポスト宮崎、高畑、押井、富野にあたる下の世代の注目株の監督は圧倒的に美大系(芸大の映像系)が多い。より映像、絵作りの比重というのが現代アニメにおいて重要になってる事を示している(次に多いのがおそらく映画系専門学校)。
あと絵が理解出来ない映画、脚本重視派は意図的に絵の値打ちを下げようとする。「あくまでも一構成要素」というコンセサスがあるかのように見せかける。自分寄りに修正する。だがソコには無自覚なペテンがある。
彼らが最初にアニメに魅せられた体験はきっとアニメの絵でありアニメートだった筈。ソコを隠匿している。
この現象は色々なところでよく見られる。絵の本質に辿り着けない精神的インポがよくやる行動。
ダヴィンチコードなどがそう。絵画の理解を謎解きへと軸ずらしする。モナリザの絵に秘密など無い。目の前にある、その絵だけがすべて。
またダヴィンチに対する理系人間たちの不自然な食い付きは「ダヴィンチは理系の人」という事実から自分との勝手なシンパシーを見いだして、その親近感を絵画の理解へとスリ替えている行為だ。