漫画は絵の表現。ストーリーさえも絵の一部に過ぎない。


漫画を絵だけで批評すると反発される。彼らにも納得出来そうな「漫画の本質とは」という定義をもしココで示すなら「漫画は絵でもストーリーでもない。その間で空気の様に存在する概念的なエーテルこそが漫画だ」という感じになる。

よく出来た漫画のシーンは「絵とフキダシを交互に読んでる」という感覚が無い。絵ともセリフとも認識させない「淀みない一つのイメージ」として頭の中にスッと瞬間にして入ってくる。コトバにするなら「漫画グルーヴ」とでもいう様な感じ。(このあたりをよく理解していて上手いなと感じるマンガ家を挙げると久保帯人とか。※漫画自体はキライだけど)
つまり「目には見えない概念的なモノを可視化する為に絵やストーリーを使った表現技法がマンガ」という事になる。

だがそれらを踏まえた上で漫画は絵の表現であるといえる。上記の事を通過した上で、やはりココへと戻ってくる。
そして絵にマンガの本質があるというと何故か「絵の上手いマンガ至上主義」という認識を勝手にして怒りだす人たちがいる(或はストーリーを軽視してるとか)。

マンガが他のストーリーをともなった表現技法(小説、映画、演劇)と決定的に違うのは絵を使っているという点。ソコにはやはり独自性がある。(マンガの価値を高めるには)意味付けというのが要る。
決して「他のメディアの代用品などではない」という事を証明する必要がある(そしてこの部分こそ「ポストアート」としての可能性を自分がオタクに感じている点だ)。

まず絵ありきかストーリーありきかでいえば、マンガは「絵ありき」だと思う。例え描きたいストーリーがあってもソレに見合った絵が描けなければ断念せざるを得ない。
自分の描ける絵というのがソレに相応しいストーリーというのを求めてくる。常にマンガは絵に支配されている。
そして(絵に支配されている)ストーリーも絵というのを二重に求めてくる。自分がマンガ絵としてリアリティを感じるのが板垣恵介と福本伸行。あの絵は単体では存在しえない絵。マンガという表現の中でのみ成立してる絵だとさえ言える。





両者とも人間の極限を描く作家。すごく単純化された「人間の本質的なモノ」を神話化しようとしてる。絵は必要な要素にのみ特化し、不必要な部分はバッサリと削ぎ落とされている。それらは一見すると異様なほどグロテスクだ。
神話というのは「遠近法」や「明暗による立体技法」では描けない。日常感覚からは超絶したモノだから。古代文明の壁画のように、それらは象徴化しなければならない。そうしなければ永遠という時間は越せないから。

だから板垣の極限はあの「キモチ悪いぐらいに人体解剖化された過剰な筋肉」でしか表せないし、福本の極限はあの「呆れるぐらいに単純化された三角形に尖った鼻」でしかもう表せないのだ。